Call
『mail』続編。長編の『Call』とはまったく別のIfルートver.















side:S


あれから、一年が経った。
完全にメールが途切れたあの日のあと。折原臨也の行動はあまりにも迅速で、静雄がそれに気付いたのはすべてが終わってからで。
新宿どころか東京のどこにも黒づくめの情報屋の姿はなく、その消息はまったく掴めなかった。

一年という決して短くない時間は、静雄の上にも、たぶん消えた情報屋の上にも、平等に降り積もっている。
臨也がいなくなって、静雄の周囲はだいぶ静かになった。
喧嘩をふっかけられる回数も格段に減ったし、臨也の姿を見つけて暴れることがなくなったから物を壊すことも減っていた。そう考えればいいことだと言えるのかもしれないが。だが、それでも、静雄にとっては、臨也が姿を消したことは許容しがたい苦痛をはらむものだった。

机の上に放り出した携帯を眺めて、じわりと沸き上がる懐かしさと苦々しさを織り交ぜた感情に、静雄は目を伏せる。
あの日、もしすぐに行動していたら、と思わない日はない。
悩んで悩んで、結局諦められなくて、臨也の事務所を訪れたのは一週間後。その時にはそこには臨也の痕跡は何ひとつとして残っていなかった。
あの時感じた絶望は、月日と共に多少は薄れながらもまだ静雄の胸に巣くっている。これから先、時間がこの胸の痛みを鈍らせていったとしても。それでも、完全に消え去る日などないのだと、静雄はどこかで理解していた。
告白する前にそのゆくべき先を失った恋は、『失恋』という形で決着を付けることさえ許されず、宙ぶらりんのまま、永遠に自分の心の中にあり続けるのだろう。
消せないまま、わざわざその為だけに購入したパソコンに大事に保存してあるメールがそれを示しているようで、静雄は小さく力のないため息を零す。

「…手前は、いったいどこにいんだろうな」

死んだとは思わない。
あれはそう簡単にくたばるような男ではない。
でも、静雄の持つ新羅曰くの”臨也センサー”にもまったく引っかからない。
本当に、どこに行ってしまったのか――

「…っと」

急に携帯が振動をはじめて、静雄はそれを手に取った。
「新羅…?」
小さなディスプレイに映る名は数少ない友人のもので、何だと首を傾げつつ開く。
そして、静雄は大きく目を見開いた。
慌てて立ち上がってローテーブルをひっくり返して。だがそれを気にする余裕すらなく靴を突っかけて外へと走り出した彼は、部屋の鍵を掛け忘れたとかそんなこと頭の隅にすら浮かべはしなかった。

――『せっかくの休日にあいも変わらずぼんやり無駄に時間を過ごしてるだろう君に朗報!』

そんな言葉で始まったメールは、静雄の頭から他のすべてを奪うほどの内容だった。












side:I


「…一年ぶり、ですか」
目の前の相手にそう言われて。
黒づくめの情報屋は口角を持ち上げ、うっすらと笑んでみせた。
「そうですね。…もう一年です」
臨也が逃げるように日本を出て、早一年。
ようやくあちらでの基盤も整いはじめ、こうして日本で世話になった既知を訪れる余裕もできたのだ。
慌ただしかった一年を懐かしく思い出しながら、臨也は差し出された紙の束を受け取りひとつ頷いた。
「これで、以前お受けした仕事はすべて完了ですね」
「もう帰ってくる気はないんですか?」
問いかける相手――四木に、苦笑を浮かべて首を振る。
「ここはもう俺のホームじゃないですから」

あの日、あの時。
臨也は静雄との繋がりとともにすべてを捨てることに決めた。
近くにいて未練ばかりが募るより、離れてすべて忘れてしまおうと。
そう、思ったのだ。
今まで築いたものをたかが恋如きで失っていいのか、と思わなかったわけではない。
でも、それでも。
そうしなければならないほど、臨也の中の静雄の比重は重くなっていた。
だからこそ、あの時の判断を後悔したことはない。

「それに、あちらはあちらでなかなか面白いんですよ」
海外に拠点を移したのは、慣れない環境で基盤づくりに励むことで忙殺されることを望んだからだ。
人間観察はどこでだって出来る。
ならば静雄を忘れるには忙しい方がいい、と選択した移転は望んだ通りの結果を臨也に与えてくれた。
臨也の中ではもう、静雄への恋は終わったもの。少なくとも、彼はそう考えていた。

「では、そろそろ行きますね」

何かあったらまたどうぞ、と営業用の笑みを浮かべて臨也は席を立つ。
明日には日本を発つのであまり長居する気はなかった。
「ええ、…」
そう答えた四木は、そのまま言葉を続けようとして、首を振って口を閉ざす。
これは自分が口を出すべき問題ではない。そう、思ったからだ。
そして、かわりに一度は閉じた口に別の問いを乗せる。
「…他にも寄るところがあるんですか?」
あくまで穏やかに、抑揚のない声での問いかけに。
臨也は少し目を細めて、首を傾げる。

「いえ、特には。岸谷新羅のところには先に少し寄らせてもらったので、あとはすこしだけ散策して帰るくらいですね」
「…そうですか」

では失礼します、と言う彼を見送ってから。
四木は自身の携帯を取り出し、闇医者の番号を表示させた。





***





その姿を視界に入れた途端、ざわり、と心の中のどこかがざわめいた。
そんな気が、した。

「しずちゃん…?」

呟く声が掠れなかったことに安堵しながら、臨也はそうと気付かれない程度に表情を作る。
一年前、最後に見た姿と変わらない目の前の男。
臨也に向かって一直線に駆けてきた男に逃げようと思わなかったのは、たぶん一年という歳月が静雄への危機感を薄れさせてしまっていたからだろう。
それを考えれば自分の感覚の鈍り具合に舌打ちをしたくなるが、今の問題はそこではなかった。

「久しぶりだね」

荒い息をついて自分を見下ろす静雄に、無様なほど早鐘を打つ心臓。
息をするのさえ苦しいほどに、自分の感覚の全てが彼だけに集中する。
静雄の姿を見るまで、臨也は自分の身体がそんなふうに反応するとは想像もしていなかったのだ。
あちらで忙しさにかまけるうち思い出さない日が多くなって、記憶は薄れ、恋心も薄れたのだと、そう思っていた。
だが、違うのだと。
臨也は今思い知らされてしまった。

「手前今までどこに居やがったんだ」
「………」
「なんとか、いいやがれクソノミ蟲」

怒りよりも苛立ちだろうか?
サングラスをどこに忘れたのかただ真っ直ぐ向けられる遮るもののない視線は鋭く、射抜くような強さを持っている。
それにしても、ノミ蟲、ね。
別に名前を呼んでもらえなかったことに落胆したわけではないが、気分は一気に沈んだ。
真っ先にその呼び方が来るということは、やはり自分は静雄にとってそういう存在でしかなかったということなのだろうと。そう考えると、静雄のメールに一喜一憂していた一年前の自分が馬鹿みたいに思えてくる。
結局、あのメールは静雄にとってその程度でしかなく、自分のような想いは生まれなかったのだと再確認しただけだ。

「なぁにシズちゃん、まさか俺がいなくて寂しかった?まあそんなわけないよね?どちらかと言えば清々したんじゃないの?ああ、もちろん俺は清々したね。君に追いかけられることともなく趣味に没頭できる毎日!すごくすごく充実してて君の事なんてまったくこれっぽっちも!思い出したりしなかったよ!」
痛む胸の内を誤魔化すために一気に捲くし立てるように喋れば、静雄のこめかみに青筋が浮かぶ。
「黙れ」
「はは、相変わらずだねぇ」
懐かしい言葉に、胸にじわりと新たな鈍痛が生まれた。

「つか、どこに居やがったんだって訊いてんだよ、答えろ」
「君には関係ないでしょ?」
「関係ねぇかどうかは俺が決める」
「…君には、関係ないよ。だってもう俺は君の前に現れないし」
「………ッ」

ギリギリ奥歯を噛み締めて人を殺せそうな視線を向けてくる男に首を振って。
臨也は大げさな仕草でため息をついてみせる。

「なんでそんな顔するのさ。君にとってはいい話だろ?」
「っ……手前は、あのメール」
「ん?」
「…………なんでも、ねぇッ」
「ふぅん?」

大したものでなかったとしても相手もまだ完全に忘れてはいなかったのか、と臨也は苦々しい気分で思う。
そもそも、あれがすべての始まりだ。
あれがなければ、今でも臨也はこの街にいただろうし、静雄に対して恋心を抱いたりもしなかった可能性は高い。世の中に絶対などそうありはしないから確実ではないが、あの当時の確執を思えば恋をする可能性など限りなく低かっただったろう。
あの時、あの最初の時に、あんなメールを返さなければ、と思ったことがないわけではない。
すべての始まりはあのメール。あの短い文章なのだ。

「……手前、当分こっちにいるのか?」
「いや?シズちゃんを喜ばせるのは癪だけど、移転先でいくつか仕事を抱えてるからね。すぐに帰らなきゃいけないのさ」
「…そう、か」

静雄の表情は読みにくい。
少なくとも臨也にとってはそうだった。
単純で怒りや喜びはすぐに顔に出るくせに、時々酷く表情が乏しくなってどうしてもその内面を推し量ることが出来ない瞬間がある。今がまさにそれだった。
ああ、そうか。と臨也は心の中でひとりごちた。
一年という歳月は、臨也の中の静雄の記憶を埋もれさせるにはまったく足りていなかったのだと。
すぐに頭に浮かんだ静雄の癖や行動パターンで思い知らされる。

忘れたつもりだった。
忘れられたはずだった。
つい先ほど、静雄に会うまでは確かに過去のことだと、そう、思っていたのに。
でも、実際には記憶はただ、眠っていただけだった。
ああ、結局。結局、自分はこの男への気持ちを消し去ることなどできないのだと、臨也は自嘲する。
どうしようもないのに。もうあの頃には戻れないのに。
そう分かっていたから、臨也は静雄から貰ったメールはすべて消去した。
それは臨也の覚悟で、静雄を諦めるために、決別するために、必要な儀式だった。
もうあのどこか暖かい不思議な関係には戻れない。戻らない。
そう、臨也は決めたのだ。

「まあいいや」

そう口にして、ポケットから携帯を取り出し時間を確認する仕草をする。
実際には時間を気にするような用件はもう残っていなかったが、振りは大事だ。
こと、単純なくせに勘だけは鋭い男から逃れるためには必須といってもいい。
どうやら喧嘩する気はないようだし、大事な用があるとでも言えば見逃して貰えるだろうと踏んでいた。

「俺、これからまだ用事があるからさ。いつまでもシズちゃんに付き合ってなんかいられないんだよね」
「…ッ…待」
「じゃあそういうことで」

静雄の言葉を遮って、臨也は笑う。
でき得る限り、彼の嫌う『折原臨也』の笑みを浮かべて。

「じゃあね、シズちゃん」

言葉に詰まった静雄をからかうようにひらりと手を振って、臨也は身を翻す。
歩み去るための一歩を踏み出すのに勇気がいるなんて悟られないように、細心の注意を払って足を踏み出して。
走り出したくなる衝動をねじ伏せて。
臨也は悠然と歩く。
振り返りはしない。例え相手が呼び止めても、以前のように何かを投げつけてきても、決して振り返らず歩き去ること。それが今の臨也にできる最善だった。
一歩進むごとに、じわりじわりと胸が鈍い痛みに苛まれていたとしても、決して歩みを止めない。
もう二度と零さないと決めた涙が滲んできて、臨也は唇を噛みしめる。
明日、また日本を出てしまえばそれで終わりだ。
そう言い聞かせて、ただ堪えるしかなかった。













side:S


人混みの中に一年前と変わらない黒尽くめの男の姿を見つけた瞬間。
静雄の胸に沸いた感情はまぎれもなく歓喜だった。


「しずちゃん…?」

正面に立って荒い息を整えながら見つめていると、当惑した声。
その声に、ドキンと心臓が大きく拍動する。
臨也が目の前にいる。それだけで、静雄の鼓動は早くなって。
久しぶりだね、と言う相手に、うまく言葉が返せず。
「手前今までどこに居やがったんだ」
などという言葉が口から滑り出して、すぐに後悔した。
先に、言うべきことなどいくらでもあっただろうが。
そう思うのに、歓喜と焦燥とでぐちゃぐちゃになった心は、結局ただその一点に集中してしまっていた。
探しても見つからなくて、でも諦められなくて。
一年という歳月が過ぎても消せなかった想いは、まだしっかりと静雄の中で息づいているのだから。

「なんとか、いいやがれクソノミ蟲」

一瞬見せた動揺の後、すぐに見知ったムカつく表情を浮かべた男は、記憶の中のものと寸分違わない。
やけにクリアな視界にサングラスを忘れて飛び出してきたことに気づいたが、そんなものはどうでもいい。
早く、早くと急く心を無理やり捻じ伏せて、静雄は臨也を捕らえる一瞬を狙っていた。
とにかく捕まえて、言わねばならないことがある。
そこからこの恋が終わるにせよ始まるにせよ、言わなければ何も変わらない。このままでは自分の中の気持ちは一生消えない傷として残ってしまうと、そう分かっていたからこそ。言わなければならないのだ。

なのに。

口にできない。
たった一言、好きだと、好きだったのだと、そう告げればいいだけのに。
喉がカラカラに渇いて言葉が詰まって出てこなくて、その苛立ちに静雄の余計に視線が険しくなる。
それに何を思ったのか、臨也がくっと喉の奥で笑って、言った。

「なぁにシズちゃん、まさか俺がいなくて寂しかった?まあそんなわけないよね?どちらかと言えば清々したんじゃないの?ああ、もちろん俺は清々したね。君に追いかけられることともなく趣味に没頭できる毎日!すごくすごく充実してて君の事なんてまったくこれっぽっちも!思い出したりしなかったよ!」

捲くし立てるような長ったらしくムカつく言葉と口調に、怒りがこみ上げてきた。
つまりこいつは、静雄のことなどまったくどうでもよかったということか。
あのメールを楽しみにしていたのは、暖かい気持ちになっていたのは、自分だけだったのか。

「黙れ」
「はは、相変わらずだねぇ」

にやにや笑いは昔のまま。
あの、喧嘩に明け暮れ、一方でメールを交わしていたあの頃と同じ。
なのに、抱く気持ちはまったく違うものなのか。

「つか、どこに居やがったんだって訊いてんだよ、答えろ」
「君には関係ないでしょ?」
「関係ねぇかどうかは俺が決める」
「…君には、関係ないよ。だってもう俺は君の前に現れないし」
「………ッ」

胸に生まれたキリキリと刺すような痛みに、静雄は奥歯を噛み締めて耐えた。
そうでなければ、怒りと焦りでぐちゃぐちゃとまとまらない感情のまま、今すぐにでも目の前の男を殴ってしまいそうだった。
そんな静雄に、臨也は大げさな仕草でやれやれとため息をついてみせる。

「なんでそんな顔するのさ。君にとってはいい話だろ?」

いい話はわけがあるか!
そう叫べたらどんなに良かっただろう。
だが、実際には静雄は自分の気持ちを表現するような、そんな言葉を口にすることはできなかった。
言葉にしようとするたび喉がつかえて、音にならない。

「っ……手前は、あのメール」
「ん?」

あのメールに何も感じていなかったのかと。そう問いたいのに、やはり言葉が続かない。
今までそんなふうになったことなどなかったのに。臨也を前にすると、静雄の喉は萎縮したように想いを発することができなくなるようだった。

「…………なんでも、ねぇッ」
「ふぅん?」

首を傾げて、でもそれ以上踏み込んでこない臨也を苦々しく思う。
彼があと一歩踏み込んでくれれば、そうすれば勢いで言えるかもしれないのに、と。他力本願なことを考えてしまうほど今の、静雄は追い詰められていた。
「……手前、当分こっちにいるのか?」
それでも何とか場を繋ごうと出てくる言葉は言いたいこととは違うことで、苛立ちは強くなる一方だった。
「いや?シズちゃんを喜ばせるのは癪だけど、移転先でいくつか仕事を抱えてるからね。すぐに帰らなきゃいけないのさ」
「…そう、か」

じわり、と焦燥が苛立ちに取って代わる。
このままではいけない。そう思うのに。
焦りのあまりどうすればと思考の迷宮に迷い込んだ静雄は、臨也が僅かに見せた表情の変化に気づくことはなかった。
苦しさと悲しさと思慕と、複雑に感情が絡み合った、切なげなその顔に。
もし気づけていれば、たぶんこの後の結果は違っていたというのに。彼は、気づけなかったのだ。

「まあいいや」

興味を失ったような色のない声が静雄の耳に響く。
慌てて意識を相手に戻せば、ポケットから携帯を取り出し時間を確認する仕草をする臨也の姿。
時間を気にするということは、この後何か用事があるのだろうか。

「俺、これからまだ用事があるからさ。いつまでもシズちゃんに付き合ってなんかいられないんだよね」
「…ッ…待」

予想通りそう言った彼に、静雄は焦って引きとめようとする、が。

「じゃあそういうことで」

静雄の言葉を遮って、臨也は笑った。
静雄の嫌いな、懐かしいあの『折原臨也』の笑み。

「―――ッ」

心臓が引き絞られるようだった。
明確な拒絶の意思を持って浮かべられた表情が、今の臨也の気持ちをはっきりと表していて。
静雄は呼吸すらままならない痛みを感じていた。
そんな彼の心情など意に介さないというように、ひらりと手を振って。

「じゃあね、シズちゃん」

くるりと身を翻した情報屋が歩き出す。
一歩一歩、確実に遠ざかる背がどうしようもなく耐えがたい苦痛をもたらして、静雄は滲む視界もそのままに叫ぶ。

「待てよ、おい!い――…っ…ノミ蟲!」

名前を呼ぶのを躊躇ったのは、明確に拒絶されたせいだ。
元々その呼び名を許容していなかった男は、当然の如く振り返ることはない。
それが決別の証のように思えて、静雄は追いかけることもできずに立ち竦むしかなかった。
臨也が一歩進むごとに、胸の痛みが酷くなる。
この世の全てが終わったかのような、そんな気持ちを抱えたまま。
静雄は臨也の姿が人ごみに紛れるまで――紛れてしまっても、彼のいるだろう方向を見つめ続けていた。





***





すべてが終わったのだ。
自分の弱さで一歩踏み出せず、相手からは明確な拒絶を示されて。
結局、想いを口にすることもできず、始まりもせずにすべては終わってしまった。
あの苦しさだけが残った再開からすでに一週間。
いい加減、別なことを考えるべきだと、そう分かっているのに、静雄はいまだに未練がましく臨也を思い続けていた。

「…一生、このまま…かもな」

ズキリズキリと痛む心に蓋をしたとしても、たぶんそれは完全に封じることはできないだろう。
時間が気持ちを薄れさせてはくれるだろうが、でも完全に消えることはないだろう。たとえ、いつか他の誰かと恋に落ちても、静雄はどこかでこの想いを脳裏に甦らせて、そしてその度に苦しむことになる。
それが何となく分かってしまって、静雄はどうすることもできず塞ぎ込むしかなかった。

もちろん、こんな心境だろうとどんなに落ち込んでいようと仕事にはちゃんと行っていた。
ただ、ほとんど眠れない日が続き体調は思わしくなく。あまりの顔色の悪さに、トムに心配され、偶然会った門田や来良の学生にも心配され、静雄はそれを申し訳なく思う。
思ったところで具体的な解決策があるわけでもなくて、心配したセルティ経由で話を聞いた新羅に「必要なら睡眠導入剤とか処方してみるけど?効くかどうかは保障しないけど」とまで言われる始末。
本当に、どうしたらいいのだろうか。
そんなふうに、静雄はぼんやりとしたまま同じ思考のループを繰り返す。

と、その思考を中断するように携帯が鳴る。
緩慢な動作で手にとって、名前も確認せずにでた静雄の耳に聞こえてきたのは弟の声だった。

『兄さん?』
「…おう、幽か。どうした?」
『……。今、家にいる?』
「ああ、いるけどよ」
『じゃあ今から行くから』

なんだろうと思いながら、しばらく待つと。
弟――幽がやってきたことを告げるチャイムが鳴る。

「久しぶり」
直接会うのは確かに久しぶりだ。
いつもだったすごく嬉しいはずなのに、心はほとんどといってもいいほど動かなくて、静雄は苦しげに眉を寄せつつ自身も挨拶を返す。
「今日はどうしたんだ?」
上がってもらって問いかければ、小さく首を傾けた幽が手に持っていた小さな袋から何かを取り出した。

「兄さん、これ」

差し出されたのはパスポートとチケットらしきもの。
それと、飛行機のものと思しきチケットの上に重ねられた走り書きのあるメモだった。
「それは岸谷さんから」
そう言われて、首を傾げる。

「…幽?」
「兄さんは、行くべきだと思う」

とん、と静雄の胸にそれらを押し当てて。
まっすぐに見つめて言う弟の目は真剣だった。
「臨也さんに、ちゃんと自分の気持ちを伝えてきたほうがいい」
ああ、知られていたのか。
多少驚きながらもどこかこの弟なら知っていてもおかしくないと納得して、静雄は小さく苦笑する。
胸に押し当てられたままのものを受け取って、見れば、
「明日かよ…」
チケットの日付は明日を示していた。

「早くしないと決心が鈍ると思ったから」
「あー…まあ、そうだな」
というか、決心などできていないのだが。
たとえちゃんと伝えたとしても、すでに拒絶されるのは確定している。
告げる勇気があるかと問われれば、静雄は否と答えるしかない。
そもそも、あの再会の時に告白できなかった時点で、もう不可能に等しかった。

「そうやって、兄さんは一生苦しむつもりなの?」
「……」
「兄さんがあの人をどれくらい好きなのかは知らない。でも、忘れられるようなものじゃないから、一年もずっと苦しんできた」
そうだよね?と確信を持って問う弟に何も返せず、静雄はぐっと押し黙る。
そんなことは、分かっているのだ。
「告白してその結果がどんなものであったとしても、今のどこにもいけない状況を変えることはできるはずだから」
そう言って、そこで口を噤んだ幽の瞳は本気で静雄を心配していた。
分かってる。幽にも皆にも。とても心配をかけている自覚はある。

「そう、だな…」

つぶやく声は掠れていたけれど。
それでも静雄は頷いた。
たぶん、幽の言うことは正しい。
こんなふうに苦しいだけの感情を抱えたまま一生を過ごすなど、耐えられるわけがないのだ。
この状況を変えなければいけない。告白したところでこの想いが消えるわけでもなく、別な傷を生むだけであったとしても。そうしなければ、静雄はどこにもいけない心を抱えたまま、ずっと苦しみ続けることになるのだから。

「…いって、みるか」
「うん」

視界が開けた気がした。
とにかく今の状況を変えること。そこに重点を置くならば、拒絶されるのと知っている分、気は楽だ。
ただ一方的にでもこの想いをぶちまけて、そうして初めて、静雄は新しい一歩を踏み出せる。
その考えがすでに自分自身を騙す嘘だと知ってはいたけれど、打開策と呼ぶにはあまりにも何の解決にもなっていない粗末なものだと知っていたけれど。静雄はそうすることでしか前を進めそうにはないのだから。だから、幽の好意に素直に甘えることに決めた。

「ちゃんとプロポーズの言葉、考えたほうがいいよ?」
あの人、案外そういうの気にしそうだから。
そんな言葉に、静雄は目を瞬かせる。
そもそも拒絶されることが分かっているのに、そんな言葉を考えることに意味があるとは思えない。
そう思いつつも、確かに前のように上手く伝えられないと困るから言うべきことはまとめておくべきだなと考え。
「あー…そうだな…考えてみる」
頷いた静雄は、どうやって告白するか悩む。
どんな言葉でもいい。
自分がどれほどあのメールを大切に思っていたか。どれほど臨也とのやり取りを楽しみにしていたか。
そこから順に、自分の思いを伝えていこうと心に決めて、告白までこぎつけるための言葉を考える。
が、どうにもいい言葉が思いつかない。
静雄はあの酷薄な想い人と違い、あまり言葉を使って伝えるのは得意ではないのだ。
あー畜生、どうするか。
頭を悩ませるが、ボキャブラリーも足りない静雄には効果的な告白など思いつけるはずもなく。
はあとため息をついて、弟を見た。

「自分の言葉で伝えないと意味ないよ」
「…だよなぁ」

ああ、どうしたらいいか。
呆れを含んだ幽の声に顔を歪めてぐるぐると思い悩む静雄。
あまりにも思いつかなくて、途中で、そもそも話をまともに聞いてもらえる保証もないのだから、まずは逃げられないようにしなければとか、そんな方向に思考が流れてしまう。そんな彼だったが。
それでもひとつだけ、これだけは真っ先にと思う言葉はもう決まっていた。
これ以外ないとそう思っているから。これにこそ一番、自分の想いがこめられる気がするから。



彼に再開して最初に言う言葉は、たったひとつ。

――『臨也』と。

結局口に出来ずに終わったその名を。
たとえ拒絶されても、今度こそ、彼の耳に届けるのだ。












※それが、そこからもう一度始めるための、最初の言葉。