カリ・ユガ  前編
※前後編。シリアス。










カタカタとキーボードを打つ音が室内に響く。
先程からひっきりなしに入ってくる情報の断片を確認し、その繋がりを調べ、纏め上げる。

「…それほど面白そうな感じでもないなあ」

そう呟いて、ある程度纏まって全貌を見せ始めた情報への興味をなくした臨也は溜息をついた。
ほんのちょっとした抗争。内部に孕んだ危険因子。他にもいくつかの要素が絡んで当事者たちは慌てふためいているようだが、それは臨也の知ったところではない。利用価値のないものには興味がなかった。

「あーあ…時間の無駄だったな」

端末に流れる情報を眺めながら、椅子の背に凭れて欠伸をひとつ。
この世は侭ならないから面白い。臨也はそう思っている。
だから、時間の無駄でもただ無駄だったと思うだけで別にそれで苛立ったりはしない。
堕落し汚濁と悪徳と暴力に塗れた世界で、臨也はただそれを眺めて愉しむだけだ。今回はたまたまそれが思ったほど愉しめなかっただけのこと。
防音効果の高い室内は静かで、その静寂に臨也は目を閉じかけ――。

ガンッ。

静寂は呆気なく、ドアノブを破壊したと思われる鈍い音で破られた。
続いて軋む音。床を踏み荒らす音。
土足で上がらないで欲しいんだけどな、と溜息をついて臨也は玄関へと続くドアに視線を向けた。
すぐにそのドアも破壊され、見知った相手が踏み込んできた。

「…やあ、シズちゃん。よくここが分かったね。今日はどうしたのさ」
「臨也…」

凶悪な目つきで睨んでくる池袋最強に、臨也は相手の神経を逆なでするような笑みを浮かべる。
場所は新宿だが、ここはいつもの事務所ではない。幾つかある隠れ家のひとつで、静雄はこの場所を訪れたことはなかったはずだ。
なのに見事探し当てた相手の嗅覚をいっそ褒めるべきかもしれない。

「でもわざわざこんなところまで探しに来たって事は、なにか用事があるんだよね?ないと言わせる気はないよ?ていうか、一晩で最低二軒は家を壊された俺の気持ちも考えて欲しいな」

静雄がここに居るということはすでに事務所の方で不在を確かめたということで、少なくともその玄関は大破しているはずだった。
何度言っても繰り返す相手に溜息は尽きない。
が、どうやらそもそも静雄は臨也の言葉など聞いていなかったらしい。

「手前、なんで来なかった」

唐突にそう言われて、臨也は首を捻る。

「俺、なんか約束してたっけ?」

はて、と考えるがやはり覚えはない。
ただ、強い怒り視線が徐々にその熱を上げるのを眺め見て、その理由を探そうとしてはみた。
臨也と静雄の関係は昔からそう変わっていない。そこにいつの間にか紛れた身体の関係が多少イレギュラーではあったが、それだけだ。
こんなふうに――恋人に約束を破られたかのように――拗ねを含んだ怒りを向けられる覚えはない。

「シズちゃん、あのさ――」
「臨也」

硬質な声で呼ばれて、臨也は続けようとした問いを飲み込んだ。
怒り、苛立ち、焦燥、あとは…。
静雄の目に浮かぶ感情を読み取って、臨也は困惑する。
自分である必要はないはずなのだ。むしろ静雄にとっての自分は憎むべき敵であって、また、そうなるように臨也自身仕向けてきたつもりだった。
だというのに、今自分に向けられている視線は間違いなく情欲を孕んでいて。
ああそういえば、と臨也は心の中だけで嘆息した。
ここのところ定期的に臨也は静雄と身体をあわせていた――そこには特に何の意図もなかったが。
それがパタリと止んだのは三週間前。
俄かに騒がしくなった周囲の情勢に気をとられたのが理由だ。

「…ひょっとしてシズちゃん欲求不満なの?」

問いかけた相手は返事こそしなかったが、真剣な眼差しを向けてくる。
そこに滲んだ欲の色を見つけ、面倒だなと溜息をつく。考えるのさえ馬鹿馬鹿しくなる。
臨也はこの時の自分が先入観ゆえに静雄の感情を読み間違えたことに気付かぬまま、苛立ったように髪を掻き揚げた。

「あのさ。それだけなら俺が相手である必要なんてないよね?」

わざわざ探し出して文句を言う理由が分からない。
静雄がどういう相手を好むのか。臨也は情報の一端として知っている。
少なくとも静雄は臨也以外男に手をつけたことはなく、相手はいつでも年上の商売女だったはずだ。
恋人を持たないのはどうせ壊してしまうのを怖れているからだろうと鼻で笑った記憶もある。
だというのに。

「手前がいんのに何で他の奴とヤる必要がある」

予想外な台詞が静雄の口から吐かれ、臨也は目を見開き一瞬全ての思考を停止した。
きょとんと無防備な表情で見つめてくる臨也に、静雄はここに来てはじめて口角を吊り上げた。どこか狡猾な、普段の臨也が浮かべるそれに似た笑み。
一気に表面化した、静雄の中で怒りや情欲に混じってちらついていた暗い感情、先程臨也が読み損ねたそれをすべて乗せた笑みだった。

「し、ず…ちゃん?」

あ、やばい。と反射的に思うが、時は既に遅く。
僅か数歩で互いの距離を縮めた静雄が臨也の腕を捕らえる。緊張に強張った身体がそれでも辛うじて繰り出したナイフの一撃は残った腕共々あっさり封じられた。
そのまま片手で一纏めに括られて、臨也はようやくその意識の端に恐怖を感じ始める。
意味が分からない。臨也にとっての静雄はたいがいよく分からない理解できない生き物だが、今日は格別に理解不能だった。
お互い嫌い合って憎み合っているはずなのだ。そこに暴力の延長のような性交が含まれるようになっても、なにも変わらないはずだった。
臨也は静雄が嫌いで。静雄は臨也が嫌いで。心の底から殺したいと願っているはずだった。
なのに、なんで静雄の片手は慈しむみたいに頬を撫でているんだろう。
臨也は困惑と微かな恐怖に揺れる目で、静雄を見つめるしかない。

「なあ臨也。俺は、ずっと昔から思ってたことがあるんだよ」
「…シズちゃん?」

くつりと常の彼から考えられないほど暗い笑み。
愛しげに肌を撫でる手が臨也の背を怖気で凍らせる。

「いつか、もし手前の身体だけでも俺のもんにできたら、もう逃がしてやらねぇって」
「…シズちゃ…ッ!?」

噛み付くようなキス。
混乱し、困惑し、戸惑う臨也の精神に追い討ちをかけるように、舌が口内を蹂躙していく。

「ん…ぅ……ッ…ァ」

ほとんど食われているようなものだった。
引き摺りだされた舌を到底甘噛とは言えない強さで噛まれ、血の味が口内に広がる。
嫌だとかぶりを振れば、大人しくしろと唇の端を噛み切られた。
なんでとその疑問だけを繰り返す脳に、静雄の声が降る。

「なあ臨也、俺はずっと、手前を俺だけのものにする機会を窺ってたんだよ」

知らなかっただろうと耳元で囁くように言われて、臨也は瞠目した。
ありえない。意味が分からない。そんな気配は全然なかった。そう翻弄されて纏まらない心中で思う。
そんな臨也を嘲笑うかのように、静雄は彼の顔を覗き込み不安を煽るような笑みを浮かべる。

「手前が誰のものか忘れねぇように、きっちり教え込んでやるよ」

ひく、と喉を鳴らし、臨也がついに怯えた表情を顕わにする。
ポロリと眦から零れ落ちた涙を舌で拭って、静雄はその喉元に喰らいついた。












※後編(R-18)に続く。