それでも世界は回るから、






5.だから、ここから先は成り行きまかせ















「…ねぇ、シズちゃん」
発した自身の声が予想以上に困惑の色を帯びていて、臨也は小さく息を吐いた。
折れていない左手をつかむ静雄の手を振り解くべきなのか否か。
エレベーターを降りる瞬間に繋がれて、それからずっとこの状態で歩かされている彼としては、非常に迷惑なのでできれば離してほしいのだが。

「シズちゃんってば」

声をかけても応えはない。
黙々と歩く静雄は振り返ってさえくれなくて本当に困る。下手なことをして左手まで折られたりしたら洒落にならないが、かといってこのままでは何処へ連れて行かれるか分かったものではないのだ。

「シズちゃん聞いてる?…まさかビルから落ちた後遺症とかじゃないだろうね?言っておくけど君の耳が聞こえなくなったって俺は何もしないからね?あれは君が勝手にやったことだし、俺は助けてなんてひとっこともいってないんだからね?」
そりゃ、おかげでこうやって生きてしゃべっているけど、だからって感謝なんてする気はない。そもそも静雄に追いかけられなければ臨也は転落などしなかったのだから。だから、感謝などしない。
「ねぇ、シズちゃん聞こえてる?」
「……うるせぇ少し黙れ」
「あ、聞こえてたのか。それは良かった。治療費なんて請求されたらたまったものじゃないし」
「………」

今度こそ返事はなく、繋がれた手はそのままに静雄はただ黙々と歩いていく。本当に、どこへ行こうというのか。

「ねぇ、シズちゃん…何処行くの?」
「…俺の家だ」
「………なんで?」
「…クソノミ蟲がこれ以上バカなことしでかさねぇように見張るためだ」

なにその訳分からない理由。そんなことしなくたって、怪我が治るまでは大人しくしとくっての。
そう思って、臨也は眉値を寄せた。
静雄の中ではよく分からないことが決定してしまっているらしい。彼曰く、自分は彼の獲物であり、そして――その種類はどうあれ――特別であると。そこにはある種の独占欲が見て取れて、何ともいえない奇妙な気分を味わう。
ああ、これはあるいは自分が静雄に抱くものと同じなのではないだろうか。
強い強い、様々な感情が複雑に絡み合って形成されるもの。その心が向かう先が何であるのかすら明確でなく、ただ、それでもひとつだけ知っていること。いっそ不思議なほどに強い相手への執着心を、自分と同じように静雄も持っているのだとしたら。
「シズちゃん」
「なんだ」
振り向きもせずに返される声には優しさの欠片も見当たらない。それでも離されない手が、今の自分たちの関係を示しているようだった。

「…シズちゃんちに行くのはこの際我慢するけど、いつまでいなきゃいけないわけ?」
「俺のせいで折れたっつー手前の手が治るまでだ」
「はは、ホントどういう風の吹き回しなんだい?」

うるせぇよ、と。照れ隠しでもなんでもない苛立ち混じりの声が返る。憤るようなそれは多分に諦めを含んでいて、何となく理解した。シズちゃん自棄になってない?うるせぇ別になってねぇよ。そんなやり取りをしながらゆっくりと歩を進めるうち、ふと気付いて訊いてみる。
「ねぇ、別にシズちゃんちじゃなくても良くない?」
「あ?なんで俺が手前んちに行かなきゃいけねぇんだよ」
「…まあそれはそうだけど」
やっぱり自棄なんじゃないのと問いたくなるほど不貞腐れた声だった。立ち止まって、振り返って。そうして臨也を睨みつける男の視線は鋭い。そこにあるのは強い強い執着で、少しだけ、ぞくりと背筋に寒気が走った。
「手前に選択肢はねぇ」
「横暴だねぇシズちゃん」
「今は手前の挑発に乗る気はねぇぞ」
「……ちぇ」
乗ってくれれば静雄の家に行かなくて済むかと思ったのだけれど、そう上手くは行かないらしい。行くぞ、と声をかけて手を引っ張る男に答えずにいると、
「さっさとしやがれ、このクソノミ蟲が」
苛立ちながらも振り返った体勢のまま待つ男の目にはあいもかわらず強い嫌悪の色。
なら放っておけばいいのに、なんというか…律儀な男である。

「はいはい、せっかちな男は嫌われるよシズちゃん」
「煩ぇ黙れ殺すぞ」
はいはいどうせ口だけ、殺せるもんならとっくに殺せてるでしょ?なんて思ったけど、臨也は口にしなかった。挑発に乗ってくれないことが分かってるなら余計なことを言うのは今だけはもう止めておこう。憎み合いも殺し合いも、いつだって再開できるのだ。
だから、もう少しだけ。
この気まぐれな運命の女神の采配を楽しもう。
そう、思っていた。だから。

「ねぇ、シズちゃんは、何で俺なの?」

口にした言葉足らずの問いは、相手にははっきり伝わったらしい。すごくすごく、この上なく最低最悪、という表情を浮かべて、静雄は臨也を睨みつけてきた。
殺意ばかりが宿る視線は悪くない。こういう方が、まだあの妙に複雑な色の視線なんかよりよっぽど安心できるのだ。

「…知るか。知りたくもねぇ…だから、考えねぇ」
「思考の放棄は人を退化させると思うよ?」
「…煩ぇ。…じゃあ、手前は何で俺なんだ?」
手前が答えられたら言ってやる、と意趣返しのつもりなのだろう問いを寄越した男は口の端を吊り上げている。
たぶん、臨也もまた自分同様明確な答えなど出せないと思っているのだろう。
でも、お生憎様。臨也は、自分の抱えるこの感情が何かなんてとっくの昔に知っているのだ。


「シズちゃんが欲しいからさ」


ああなんて予想通りの反応なんだろうか。
目を丸くして、化け物でも見るみたいな目で自分を見つめる『怪物』に臨也は笑う。
好きとか嫌いとか、利用出来るとか出来ないとか。
そんなことは結局二の次。臨也が抱く感情はいつだってひとつ。あの日、静雄に出会った日から、臨也の想いは何ひとつ変わりはしない。

「俺は、君が欲しいんだよ、シズちゃん」

欲しくて、でも手に入らないと知っているから。臨也はこれを自分に繋ぎ止める方法を慎重に選んできた。
思わぬ偶然で転がり込んできた『今』だって、臨也はこれが手に入るとは思っていない。

「ああ、安心していいよ?俺は別にシズちゃんが好きなわけじゃないし、これから先だって好きになるかなんて分からないんだから、君に今以上を望むことはない」
「…手前は」
「シズちゃんは?」
「あ?」
「シズちゃんは、どうして俺なの?」
答えたんだから答えてくれるだろう?と敢えて静雄の嫌いな笑みを浮かべた臨也に、静雄はしばし沈黙して。
それから、苦虫でも噛み潰したかのような渋面を作って、ぼそりと呟いた。
「…わかんねぇ」

それはよかった。ここではっきり答えを出されても困るのだ。
ただひとつ明確な執着に、そこから生じる様々な葛藤に、がんじからめにされて身動き取れなくなってもらわないと困る。

――君はそうして、ずうっと俺だけをみてればいいんだよ。

ああ、これから先を想像すると愉しくて愉しくて仕方ない。うまくいってもいかなくても、それは臨也を愉しませてくれるだろう。
静雄からの愛が欲しいわけじゃない。自分が恋をするのもまっぴらごめんだ。
『今』の関係を強引に変える必要なんて感じない。でも、それでも。その執着心だけ自分に持ち続けて欲しい。
そう願う自分は相当に捻じ曲がった精神の持ち主なのだろう。

「何で手前なのかなんて知らねぇし、分からねぇけど、それでも手前なんだよ。手前は俺が殺す。俺以外には殺させねぇ」

自分の中にあるものを手探りするように何度も音を途切れさせながら搾り出される言葉たち。静雄の中にあったそれは紛れようもない執着心で、臨也の心に悦びをもたらす。
ああ、何とも言えない気持ちの悪い相思相愛じゃないか。
ようやく自身の内のそれを自覚した男に臨也はくっと喉を鳴らした。鈍いねぇ。俺はとっくに俺には君だけだって知ってたけどね。静雄が聞いたら気色悪ぃとぼやくだろう科白をあえて口にはせず、握られたままの手に目を細めて息を吐く。

「ねぇ、シズちゃん」
「ああ゛?」
「君はいつもいつも俺を殺すって言うけどさ、自分が先に殺される可能性は考えてないわけ?」
「…はっ、手前如きが俺を殺せるかよ」
「あ、そういうこと言っちゃうんだ…へぇ」

くっと馬鹿にするように笑ってやればあからさまに降下する機嫌。それを無視して、臨也は繋がれたままだった手をぎゅっと握ってやって小首を傾げて笑顔を作った。
「さ、そろそろ行こうかシズちゃん?」
「……」
チッと舌打ちした静雄は、一瞬振り解こうか考えるように繋がる手を見つめてから、空いた方の手をポケットに突っ込んで歩き出す。それに合わせ、無視という子供じみた意思表示とそれでも繋がれたままの手とに笑みの種類を変えて、臨也も引っ張られるまま後を追って足を踏み出した。

――まあ、こんな感じが丁度いいのかもね。ねぇ、シズちゃん?

だって、どこまでいったって、所詮自分たちは自分たちでしかないのだから。
だから、ここからは成り行きまかせ。
いつか何かが変わってしまうのだとしても、今はただこのまま。












※名前もつかない曖昧なままの気持ちが、たぶん丁度いいのだと。



実はタイトルとサブタイと※の言葉はひとつの文章としてつながっていたり…