それでも世界は回るから、






4.だから、せめて終わりのみえない日々と決別したかった















自分の身体がなんでそんな行動をしたかなんて、静雄には分からなかった。
ただ、落ちた臨也を追って宙へ身を躍らせて、臨也を包むように抱きかかえたことだけ意識に残っていて。

自分の行動の意味が分からない。
と、ひとりごちる。
見捨てれば、自分の手を汚さずにあのクソ忌々しい男を始末できたはずなのだ。
落下していく臨也を見捨てていれば、無意識に手が止まるせいでとどめをさせない男は死んで、自分の中の奇妙な感情は消え失せたはずだ。
そんなこと冷静に考えるまでもなく分かっている。
分かっているのに、静雄はあの時、突如湧き上がった怒りとは違う不快感に突き動かされた。
こんなことで死なせるか、と思った自分を静雄は確かに覚えている。
そして、血の気が引いたというより別な怒りがこみ上げるようなそんな気持ちで、ほとんど無意識に臨也に手を伸ばしていた。

――つまり…俺は、あいつが俺以外のせいで死ぬのが嫌なのか…?

ますます意味が分からない。
実際臨也への殺意は本物で、いつだってとっととくたばれと思っている。別にどう死んだって自分には関係ないはずだ。
ああクソ、訳が分かんねぇ…。
ぼやいて、静雄は宙を見上げた。
真っ暗な空――と呼んでいいのかは分からないが――が広がっている。
これが夢であれ死後の世界であれ、今の静雄にはどうでもよかった。
静雄の心を占めるものはひとつだけ。あの最低最悪のクソ野郎のことだけだった。

――俺はあいつが嫌いだ。殺したいとも思ってる。それは間違いねぇ。

でも、あの時。臨也を抱きかかえたあの瞬間。
静雄は今考えれば怖気のあまり身震いしてしまうような考えを脳裏に過ぎらせていた。
これは俺のだ。なんて正気の沙汰ではない。分かっているのか?それはこの世で最も嫌悪する男だぞ?いくらすっぽり腕に収まってしまうような細い身体だろうと、男だし、敵だし、殺したいし……そもそも、大体誰に対する宣言なんだ。
ぐるぐる考えて自分の考えた内容にげんなりして、静雄は首を振る。
あまりにもドロドロとどす黒い、知りたくもない感情が溢れ出て、気持ち悪さに呻いて。
彼はついに思考を放棄した。
もうどうでもいい。とにかくアレだ。殺せば万事解決だ。
そんな物騒極まりない結論を出して息を吐き出す。

ただ、よく分からない中で、ひとつだけ、分かった。
それはつまり、自分にとってあの男が――

「し…ちゃ…」
声は唐突に降ってきた。
よく知った、知りたくもなかった声だ。と思った途端怒りがまた込み上げてくる。
るせぇ、黙れ。
そう口にしたつもりだったが、自分の喉は震えなかった。
「…ずちゃん、しずちゃんってば」
さらに聞こえる声は必死さなどない馬鹿にした響きで、静雄の中で何かがブツリと切れる音がした――気がする。
だから、黙れっつってんだろうが。耳元で喚くな!

「うるせぇ…っ」
「あ、起きた」

おはようシズちゃん、とふざけた口調で言いつつ見下ろす男をギロリと睨む。
はは起きた早々怒ってるとかシズちゃんホント短気だね!と笑って臨也は、静雄の拳が届かぬ部屋の外へとさっさと退避してしまった。
残された静雄は怒りに歯噛みし、そのままの表情で部屋にいたもう一人の人物――見知ったこの部屋の主である新羅に視線を向ける。

「僕を睨んだってしょうがないだろ?…ところで、君頭打って気絶しちゃったらしいんだけど、覚えてる?」
「……あー…たぶん?」

臨也を抱えたままビルの屋上から落下して、それで地面に叩きつけられたのだ。
少しの間意識があって臨也がなにやら叫んでいたような気がしたが、その辺になるとだいぶ曖昧のようである。

「臨也がタクシーでここまで連れてきたんだけど、一向に目を覚まさないから心配したよ」
「…悪ぃ」

素直に謝れば、まあ心配したのは僕じゃなくてセルティだけどねと返されて、だろうなと苦笑する。
こいつはそういう男だと分かっているから別に腹も立たない。それよりも、だ。

「なあ、あいつの手…」
「ああ、意外と目聡いね静雄くん。あれ、手首の骨が砕けちゃっててさ」

結構酷いよ?と続けた闇医者に静雄は無意識に眉根を寄せていた。
部屋から出て行く前、ちらりとコートから覗いた手首は、固定のためなのか真っ白な包帯がずいぶんと厚く巻かれていた。
「何で」
「え?」
「何でケガしたんだ」
落下の際下敷きになったのは静雄だ。静雄がクッション代わりになって、臨也はそれほど酷いダメージはなかったのではと考えていた。なのに、何故。

「あー……ぶっちゃけるとさ、どうも右手だけ君の身体の下敷きになったらしいよ」
「…………」

つまり何か。大人しく縮こまっていればいいものを、何か余計なことをしようとしたんだな?そうだな?そうなんだな?

「あの野郎…」
勝手にケガなんかしやがって、と臨也が聞けば理不尽だ!と声を荒げること請け合いの台詞を呟く。
のそりと身を起こして深く一度呼吸する静雄に、新羅が「頑丈というかもう非常識の塊」とか何とか呟いていたがそれは無視だ。
ベッドから降りて、向かう先はただひとつ。

「おい、ノミ蟲」

まだいるのは匂いで分かっていたからドアを開けてすぐ声をかける。
突然のことに一瞬だけ驚いた表情を見せた天敵を睨みつけて。
静雄は迷いのない足取りで彼に近づく。

――あのノミ蟲は俺の獲物だ。

あの夢の中で、静雄はそう結論を出していた。
前々からどこかでそう思っていたものがはっきりと固まったと言ってもいい。
理屈とか小難しいことはどうでもいい。そんなものはそういう思考を得意とする相手がいくらでも考えればいいことだ。静雄が分かっていればいいことはたったひとつ。この男が――どれほど悪い意味であっても――自分にとって特別な存在であると言うことだけなのだ。

真正面に立てば、困惑を押し隠した瞳が自分を見上げてくる。
まあそれはそうだろう。静雄が自分を前にして暴れださないという事態そのものが、彼にとっては異常なのだから。
よく見てりゃ思ったより分かりやすいかもなぁこいつ。と思うがそれは口に出さずに、静雄は臨也を観察するように視線を動かした。
男にしては細身の身体だ。そういや腰すっげぇ細かったなぁと思い出しながら、よく今まで自分の攻撃から逃れてきたものだと感心する。そのまま視線を移動させれば、ファー付きのコートの袖から覗く白い包帯が見えて一気に機嫌が下降したが、深呼吸で苛立ちをいなして、艶やかな黒髪に、整った秀麗な顔とゆっくり辿って。
最後に、全身くまなく確かめるような静雄の目線に居心地悪そうに身じろぐ臨也の、それでも逸らされない瞳に視線を戻した。
光の加減で赤に見える不思議な色合いの瞳は、強い光を湛えていて、機嫌が僅かに上向くのを感じながら静雄は言葉を発すべく口を開く。

「なぁ、ノミ蟲」
「…俺はノミ蟲なんて名前じゃないんだけど」
「………臨也」

不本意だが仕方なしに名を呼んでやれば、何事だと言わんばかりの表情を見せる。
まん丸に見開いた目が次第に細められて、真意を探るように不信感まるだしに見上げてきて。
意表を突けたことに何とはなしに気をよくした静雄は口の端を吊り上げて声を上げずに笑う。

「ひとつ分かった」
「…なにが」
「俺には、手前だってことがだ」
「――は?」

なにそれ、と呟く男に告げるべきことを告げて満足したところで。
「はいはい、君たち元気ならさっさと出ていってよね」
いつの間にか追ってきていたらしい新羅が迷惑そうな顔で首を振って、言った。
そして、言葉とともに背を押されて外に放り出されて、二人は玄関の前で顔を見合わせる。

「…さっきの、本気?」
問いかける臨也に頷いて、静雄は歩きだした。
すぐにシズちゃん?と何処か戸惑うような響きが追いかけてきて、仕方なしに振り返る。

「さっさと来い」
「……いつもみたいに怒らないんだ」
「今は、一応手前でもケガ人だからな」

それに、どうせ潰すなら万全の状態の臨也の方がいい。
そう思いながら渋々といった体でこちらへ歩み寄る臨也の姿を眺めて、静雄は目を眇めた。

変わらず殺意や怒りは胸の中でくすぶっている。
だが、ケガ人であるせいか、静雄の中のそれらはただくすぶるだけに留まっていた。
代わりに妙に肥大した名前の分からない感情が胸を満たしていて。
静雄はそれに首を傾げつつも、結局自身の心の変化を正しく把握することはなく、臨也とともに大人しくエレベーターの到着を待つだけだった。












※そうして始まるものがなんなのかなど、まだ知らない