それでも世界は回るから、






2.せめて無理と知っていても抗っていたかった















静雄の思考は、比較的シンプルにまとまっている。
怒りで目の前が赤く染まっていようが、そのシンプルさは変わらない。
今は、目の前で揺れる黒いそれが気に入らない。ただ、それだけ。

「こ、の、クソ野郎がッ」

叫ぶと同時、投げつけた標識を避けた男は静雄に馬鹿にしたような笑みを見せている。
どこまでも、どこまでも、ただ静雄の感情を波立たせる最悪な男だ。

「臨也くんよぉ、手前は一体いつになったら大人しくくたばってくれるんだ、ああ?」
「嫌だなぁ、くたばるのは君の方だろう?」

ニヤニヤ笑いは消さないまま小首を傾げて言った臨也が、じりと足を後ろへ移動させた。
逃げる気だ、と経験で悟って。
ダッシュしたのは静雄のほうが先。
アスファルトを陥没させるほどの力で自身を前方へと送り出し、そのまま臨也の目の前に到達して――。


静雄は臨也が嫌いだ。はっきり言って大っ嫌いだ。
潰せるものなら潰したい、殺せるものなら殺したい。
そう、常に思っておる。
なのに、だ。

「ちっ」

舌打ひとつで振り被っていた拳を下ろしてナイフを避けて、そうと分からぬように一歩足を引く。
今、静雄は臨也を殺せた。そういうタイミングだった。
それが分かっていたのに、いつものように拳が勝手に止まってしまったことに奥歯を強く噛み締めて苛立ちに唸る。
臨也と殺し合う中で度々起こるこの現象が、理性によるものでないのはすでに分かっていた。
正直な話、“殺しはいけない”なんて理性が臨也ごときに働くなら、静雄は今頃公共物破壊の常習犯でなどなくなっている。
静雄の中で臨也は確実に殺していい人間に分類されていた。いや、法的にはもちろんダメだろうが、それでも殺したほうが確実に世の中のためになると考えていた。
なのに、この拳はいつもその命を奪う寸前で動きを止めてしまうのだ。

ギリリと奥歯を噛み締めて、ナイフを構えている相手を睨み据える。
じわじわと増していく不快感。
じりじりと身を焦がすような殺意。
強い怒りに我慢などできずすぐにまた攻撃を再開するが、結局直接にダメージを与えることは出来ないままで。
「ちょこまかと逃げ回ってんじゃねぇ!」
やたらと素早い身のこなしで避ける臨也に、静雄は幾度目になるかも分からない歯軋りをする。
手が止まるなら確実に殺せるものを投げつけるしかない。
そういう単純な考えの下投げつけるものも悉くかわされて、怒りが益々強くなる。

現在手に持つ看板を投げつけるがこれもかわされ、さらに相手はくるりと反転。
瞬間、予想していなかった動きに静雄は意表をつかれて動きを止めた。
その脇をするりと抜けた黒尽くめの情報屋。

「っ!このッ」
「はは、ざぁんねんでした!」

とっさに捕らえようと伸ばした手に、ちり、と熱が走る。
ナイフで切りつけられたのだと理解し舌打して、怒りのまま一歩踏み出した。が、臨也はあっという間に看板や手すりを足場にすぐ横のビルの外階段へと上ってしまう。

「クソ、降りて来やがれノミ蟲ッ!!」
「嫌だね。何で俺が君ごときの言葉にわざわざ従ってやらなきゃならないの?それとも何?君はいつの間にか俺に命令できるほど偉くなったの?へぇ、それは知らなかったなぁ?まあよしんばそんなことがあったとしても従ってなんかやらないけど?」
「だ・ま・れ!」

そんでいますぐ死ね!と叫ぶ静雄にムカつく笑みを見せて、身を翻した臨也はトントンと軽い足取りでさらに上階へと向かっていく。
当然、追いかける。
今日こそ息の根を止めてやる、と少なくとも静雄は本気で思っていた。例え、それが不可能であったとしても。

そもそも、今までだって臨也を殺すチャンスがなかったわけではない。
回数は決して多くはないが追い詰めたことはあるし、その胸倉を引っつかんで壁に叩きつけたことだってある。
なのに、最後の一瞬。静雄は必ず躊躇う。躊躇ってしまう。
殺したい。これは本心だ。殺せ、ここですべて終わりにすべきだ、と怒りに埋もれながらも心が叫ぶ。
なのに、感情が揺れる。
怒りの中に混ざるわけのわからない何かが、静雄の手を止めさせる。
そういう時はいつも心の中が酷くぐちゃぐちゃになって、シンプルなはずの静雄の思考は一気に混沌とする。
そうして、その意味不明の感情に抗おうとして抗いきれず、結局静雄はボロボロになった臨也をその場に打ち捨てて足早に去るのが決まりきったパターンと化していた。

カン、と鉄の板に足音を響かせて臨也が階段を駆け上がる。
その背を睨み据えながら、静雄は自身も後を追う。
今日こそ追い詰めて、今日こそ、あの悪意ばかり撒き散らす男の息の根を止めるのだ。

――少しでも早く、誰にも邪魔されないうちに。

怒りと殺意と憎悪に、一瞬過ぎった奇妙な違和。
足を止めるには至らないその違和に、静雄の表情も一瞬だけ怪訝そうに歪められた。
でもそれさえも一瞬。
ひらりと翻る黒に意識はすぐに引き戻されて、静雄は階段の鉄板を蹴る足に力を込めた。
まだ、今の彼を占めるものは至ってシンプルだ。
だからこそ。

自分の思い通りにならない感情が、たまらなく不愉快で。
その元凶である男が、たまらなく憎かった。












※こんな意味不明な感情など望んでいないのに、