あるひとつの幸福論










「…あ?」

休憩中、静雄はポケットを探ってから首を傾げた。
入っているはずの煙草のケースがない。ついでに言えば、ライターも。

「あー…マジかよ」

置き忘れた場所に心当たりはある。というか、そこしかない。
だから、静雄は重い溜息をついてとりあえず携帯を取り出した。
ボタンを操作し、ある番号で指を止める。

「………」

どうしようか、と悩むこと数秒。
ああチクショウ。面倒くせぇ…。
そう思うが給料日前だ。背に腹はかえられないと自分を鼓舞し、通話ボタンを押した。
相手が出るのを待つ間も、どう切り出すかでひたすら悩む。
ひたすらに甘やかされた夜の、明け方声をかけられた時の、こそばゆいような気持ちが蘇って落ち着かない。

『やあ、シズちゃん』

ぷつりと途切れた呼び出し音の後。
聞こえてきた声に、つい息を呑んだ。

「……仕事中か?」
『なに?珍しいねシズちゃんがそんなこと言うなんて。今なら大丈夫だけど何か用?』
「…今日」
『うん?』
「帰りに手前んちに寄る」
『…………』

端的に用件だけ告げれば、沈黙が返った。
そのことに気まずくなって、静雄は「あー…」と何を告げるべきか分からず唸る。

『…ああ、ひょっとして何か忘れ物?でも携帯はあるし…他にシズちゃんが持ってくるものなんて……あ、煙草かな?』
「そうだ」
『そっか。了解。じゃ、七時頃に取りに来てよ。その頃には帰るようにするからご飯食べてけば?』
「…わかった。…手前、今家にいないのか?」
『いないよ。これからクライアントと待ち合わせ』
「わりぃ」
『構わないよ。シズちゃんなら大歓迎。あ、でもさすがにもう行かなきゃ。じゃ夜にね』
「…おう」

ぷつっと切れた通話に、盛大に息を吐く。
電話越しの、穏やかな臨也の声が耳に残っていた。
顔を合わせればろくでもないムカつくことばかり喋るくせに。そう思って複雑な気分になる。
甘やかす時はとことん甘やかす彼に翻弄される自分が馬鹿な気がして溜息が出た。
…煙草吸いてぇなクソ。
愚痴ったところで寂しい財布はそれを許してはくれない。
静雄は意味もなく緊張した自分を笑ってから、小さく舌打ちして雑踏の中に戻っていった。











午後の陽射しの中をのんびりと歩きながら、臨也は小さく笑う。
一件仕事を片付けた彼は、次の待ち合わせの場所へと軽い足取りで向かいながら先程の電話を思い出していた。
静雄から彼の携帯に電話が来ることは滅多にない。そもそも彼が自分のところに来る用事といえば、ムカつくから殴りに来たとかそんな暴力を伴うものばかりなのだ。

「はやく夜にならないかな」

軽くスキップしそうなほど――実際していたため周囲の人間が引いていた――浮き足立つ気持ちのまま、臨也は次の依頼主のことなどそっちのけで今日の晩御飯は何にしようかと考えていた。











「いらっしゃい!」

招き入れられた途端ぎゅうっと抱きつかれて、静雄は本日何度目か知れない溜息をついた。
昼間の電話越しの落ち着いた雰囲気は欠片もない。
それが良いことなのか悪いことなのか静雄には分からないが、とりあえず鬱陶しいので引っぺがす。

「邪魔だ」
「ひっどいなぁシズちゃん」
「鬱陶しい」
「そう言わずにシズちゃんからもさぁ」
「黙れ」

このまま煙草だけとって帰ってもいいんだぞと睨むと、臨也は諦めたように手を上げて降参のポーズをとって「上がってよ」と招いた。
こういう時の臨也は引き際を心得ていて、静雄の気を必要以上に荒立てることはしない。
それなりに長い付き合いでそれが分かっているから、静雄も何も言わずに大人しく部屋に上がった。
いつものようにソファに腰を下ろすと、

「俺も今日それなりに忙しかったから確認しなかったんだよねぇ」

そう言いながら煙草とライターを手渡される。
コーヒーでも飲むかと問われて頷いて、手の中のそれから一本取り出し火をつけた。
煙を吸い込んで、やっとほっと一息ついた心地で目を閉じる。
これを置いていってしまったのは明らかなミスだったが、悪くはなかったのかもしれない。
募った苛々は何故か臨也から煙草を渡された時点で消え去っていて。
静雄は知らず知らずのうちに身体の力を抜いて寛ぐ。

「シズちゃんお疲れだねぇ」

そう言って置かれたコーヒーカップ。
礼を述べて同時に置かれた灰皿に煙草を押し付けて火を消した。
からかうでもなく茶化すでもなく、ただ穏やかに紡がれる悪意のない声。
そうそう聞けるわけでない声を聞けたことは、それだけで静雄にとって価値があった。

「臨也」
「なに、シズちゃん?」

いつものあくどい笑みではなく柔和な笑みを浮かべた臨也はどうやら相当機嫌が良いらしい。
するりと頬を撫でる手はただ優しく、性的なものを匂わせる様子もない。
あやすように髪を何度も梳かれて、静雄は心地よさに目を閉じた。

「…今日も泊まっていっていいか?」

ぽつりと問えば、本当に一瞬臨也の手が止まる。
それから、

「いいよ」

今日のシズちゃんは甘えたさんだねと柔らかな声がキスとともに降ってきて。
こういうのは悪くない。そう思いながら、静雄は与えられる暖かさに素直に甘えることにした。












※たまにはこんなのも。