分別過ぐれば愚に返る
※(臨也のために)禁煙を試みる静雄の話。














ほんの些細なことだった。
けほ、と臨也が静雄の煙草の煙で僅かに咽ただけのこと。










「あー…静雄」
「なんすか」
「…煙草、吸わねぇのか?」
「……禁煙することにしたんです」

そうは言われても、後ろから伝わるピリピリとした気配がいただけない。
こうもあからさまに苛立ってますという静雄は…珍しくはないが…非常に精神的にきつい。
そう思い、静雄の上司である田中トムは嘆息する。
何を思ったのか。
静雄がぴたりと煙草を吸うのをやめて早3日。
そして、静雄の限界を試すような挑戦からもう3日。
そろそろ決壊してもおかしくなそうな気配に、無関係の人間までそそくさと逃げ出す有様だった。

「なあ静雄」
「なんすか」
「…ああ、いや…いまさら聞くのもなんなんだけどな?」
「はい」
「なんで禁煙してるんだ?」

お前キツそうで見てらんねぇよ。と言われて、静雄は申し訳なさそうな顔をする。
トムさんに心配かけちまうんて、あークソ。やっぱ止めとくべきだったか。
そう思うが、一度決心したことだ。
いまさら禁煙を止める気は静雄にはなかった。

「あの…すみません、心配かけちまったみたいで」
「いや、いいんだけどな」

視線で促されて、言ってしまうべきか、と悩む。
だが結局。
元々悩むのが得意でない静雄は、さっさと見切りをつけて口を開いた。

「付き合ってる奴があんま煙草好きじゃないみたいで、この前会った時に煙たそうにしてたんすよ」
「それで禁煙に踏み切ったわけか」
「はい。一緒にいる時に煙吸って咳き込んでんの見たら、止めたほうがいいのかなって思ったんで」
「そうか。じゃあ仕方ないか」
「すみません」
「謝んなよ。別に悪いことしてるわけじゃねぇんだから」
「あ、でも心配かけたみたいっすから」

律儀な奴だなと返すトムに、首を傾げる。
静雄にとってトムは尊敬する上司で先輩だ。
律儀なのではなく、気にかけてもらえたという事実が嬉しくて、だからこそすまないと思うのは当然のことだった。
だが。

「…あー…クソッ」

和んだ空気はすぐに苛立ちに取って代わられる。
禁煙がこれほどキツイものだとは静雄は思っていなかったのだ。
最初は口寂しいとかその程度だったものが、次第に苛立ちに変わり、ついには怒りに近い感情にまで育っている。
馬鹿なことをしている自覚はあった。
別に禁煙しろと言われたわけでもないのに自主的に禁煙するなど。
イラつきながら自分の愚かさを呪い、ついでに臨也にも呪いの念波を送ろうとした時――。
どん、と背中に衝撃が走った。
次いでよく知った、静雄の怒りを煽る軽やかだが存分に毒の込められた声が聞こえる。

「あれ?今日はずいぶん大人しいねぇシズちゃん?」

先程まで頭の中の大半を占めていた男が背後にいた。
正確には、静雄にほぼ抱きつくような体勢で静雄の背中にナイフを付き立てていた。

「ちぇっ、やっぱり刺さんないかぁ。ホントムカつくなぁ、どうなってんの君の身体?」

不満げな声はすぐに離れる。
軽いステップで少し距離をとった臨也に。
いつもならすぐに気づく気配に気づけず硬直していた静雄は、ようやく動き出す。

「手前、このノミ蟲野郎が…なんでここにいやがんだ、ああ?」
「やだなあシズちゃん。池袋は別に君のものじゃないんだから、俺が来たってなぁんにも問題ないんだよ?いくら君が勝手に主張したって意味ないんだよ?」

ああそうかよ。そうだな。手前はそういう野郎だったなあ?
ビキリと静雄のこめかみに青筋が浮いた。
禁煙を強いられたこの3日間の鬱憤もこいつで晴らしてやる、と理不尽なことを思う。

「死ねよノミ蟲」

得物になりそうなものを目の端で探しながらも相手を睨み据えて言えば。
臨也がにやにや笑いを浮かべて、爆弾発言を落とした。

「シズちゃん俺のために禁煙しようとしてるんだってね?」
「…っ!!」

どこから聞いたんだ手前!
そう怒鳴ろうとした静雄だったが、実際はそれを声にすることなく終わる。
臨也がひょいと身を乗り出して、静雄の唇に指先で触れたからだった。

「かっわいいなぁシズちゃんってば。でも、さ」

くつくつ笑う男は指を離してくるりと一回転。
上機嫌な笑みのまま、告げた。

「俺、シズちゃんの匂い好きなんだよねぇ」

煙草の匂いと混ざったやつ。
そう誘うような声で言われて、ごくりと喉が鳴った。
怒りは霧散して、代わりに湧き上がる感情に静雄は素直に従って手を伸ばそうとする。
だが、それも先程の言葉のように阻まれた。
ひゅっと臨也が何かを投げて寄越し、それを反射で受け取って。

「…これ」
「あげるよ。買ってみたけど、俺あんまり吸わないしね」

いつもの銘柄の見慣れたパッケージ。
言い訳のために切られたのだろう封と、たぶん一本もなくなっていないだろう中身。
素直じゃない相手と手の中のそれを見比べていると、また、声がかけられた。

「俺、今夜は仕事なくて暇だから一人寂しく面白くもないバラエティ番組でも見ようかと思ってるんだよね」

素直じゃないにもほどがある。誘うなら誘うでもっと素直に誘え。
そう思ったが、静雄は小さく苦笑するだけにとどめる。

「そんなに暇なら俺が殺しに行ってやろうか、臨也くんよぉ?」
「ははっ、遠慮するよ!」

ひょいと肩をすくめて首を振って。
臨也は静雄が動き出す前に「じゃあねシズちゃん!」と残して走り出した。
振り返りもせずに走り去っていく背中を追うことなく眺めて、静雄はやれやれと呟く。
手の中のに収まるものから一本取り出して、火をつけて。
それから、ゆっくりと吸い込む。

「あー…うめぇ」

感慨は心の底から。
3日ぶりのそれを肺一杯に吸い込んで、満たされた気分で目を閉じた。
やはり自分が馬鹿だったわけだ。
わざわざ池袋までそれを伝えに来た――ほぼ間違いないだろう。なにしろ相手は情報屋だ――恋人に。
静雄は今夜のスケジュールの変更を決める。
最低最悪だが意外に寂しがりの甘えん坊をたまには甘やかしてやるか、と考えて。
そこで、思い出した。
きょろきょろと辺りを見回すと、ようやく戻り始めた人波に上司の姿を見つける。
彼は周囲の人間同様、臨也の姿が見えた時点で退避していたらしい。

「……」

まずい。
純粋にそう思う。
さっき、静雄はトムに禁煙の理由が恋人だと告げたのだ。
そこに臨也のあの発言。

「ええ、と…あの、トムさん…?」

そこそこ離れた場所にいた相手に、どうか気づいていませんようにと祈るが。
ゆっくりとした足取りで近づいてきたトムは、本当に気まずそうに頬を掻く。

「あ、いや…まあ、お前がいいってんなら、別にいいんじゃねぇか?」

美人だし。
そう呟くように言って目を逸らした彼に。
静雄は「あのクソノミ蟲ッ」と低く唸り、今夜絶対臨也に逆襲してやると誓ったのだった。












※禁煙とイラつくシズちゃんと臨也の主張。

実はさりげなくトムさんを牽制しにきた臨也。でもそこまで詰め込めなかったので意味なし。
[分別過ぐれば愚に返る] 慎重に思慮分別を働かせるのはよいが、考え過ぎるとつまらない考えに陥ってしまうということ。