ぐっと手を引かれて引き寄せられて。
サングラス越しに合わせた視線に殺意がないことに、臨也は首を傾げた。

「シズちゃん?」

実に二ヶ月ぶりに出会った天敵は、何を考えているのか、公共物を投げつけるどころか怒りの色すらない目で臨也を見つめている。
この相手の考えていることが分からないのはいつものことだが、今回はいつにも増してわけが分からず訝しげに眉を寄せる。
静雄は始終無言で、正直真っ直ぐな視線が痛いし、周囲の好奇の視線もそろそろ鬱陶しくなってきた。

「シズちゃん、どうしたのさ」

問いかけ触れようと伸ばした手が、掴まれる。
両手をとられ、ぐいっと引かれてたたらを踏み、臨也は相手の胸に倒れこむ前になんとか体勢を立て直した。
やはり静雄は無言。強引な所作に不機嫌な顔。そこで、臨也はようやく、はて?と考える。
今の今まで思い浮かばなかったが、ひょっとして自分が何かしたのだろうか、とここ最近の記憶に検索をかけてみる。
些細などうでもいいようなことは臨也は覚えていない。そんな無駄なことはしないのだ。
だが、静雄に関することならまず忘れていないはずだ――意図せず感情を煽ってしまっていた場合は別として。
臨也にしては殊勝にも自分が悪い可能性を精査し、結局該当事項を見つけられず首を捻っただけだったが。
そもそも、忙しさにかまけて静雄のことにまで頭が回らない日々を送っていたのだ。何かを仕掛ける暇さえなかった。
ただ、真剣な相手の眼差しが何かを訴えていることだけが確かで、臨也は諦めて首を振る。

「シズちゃん、俺さ、君がなに考えてんのか全然わかんないんだけど――」

言葉は最後まで言わせてもらえなかった。

「…シズ、ちゃん?」

ぎゅうぎゅう抱き締められて――手加減はされている。でなければ大惨事だ――、臨也は目を瞬かせる。
抱きすくめると表現した方が正しいくらいしっかりと静雄の腕に抱き込まれていた。
意味がわからない。

「ねぇ、シズちゃん。ホント意味わかんないんだけど…とりあえず場所移動しようよ。さすがに居た堪れない」

野次馬の視線が痛い。
これ絶対噂になるよねぇなどと他人事のように思う。
だが、その言葉にも静雄は身動ぎもしなかった。
二ヶ月ぶりの服越しの体温は心地よくさえあったが、状況が状況だ。
抱き締める腕の拘束力は強く臨也自身は一切身動きできないため、静雄に動いてもらうしかない。

「しーずちゃーん、頼むよホント…ってうわ!?」

急に回った視界。
担ぎ上げられたと理解するのには数秒を要した。

「誰が運べって言ったんだよ!下ろせってか離せよ!!」
「…うるせぇ落とすぞ」

ようやく静雄が喋った。
二ヶ月ぶりに聞く声。
低く響くそれが、感情を押し殺したものだとわかって臨也はまた首を傾げる。
なんで怒らないの。なんでそんな声だしてんの。
そう思うのに、口に出すのも憚られるほど、今の静雄は静かに感情を内に押し止めていた。
下手に声をかければすぐにでもその抑えられた何かが決壊しそうで、臨也も押し黙るしかない。
そのまま、ずんずん歩く静雄の肩に担がれて路地裏へと連れ込まれた。
下ろされて、また腕に囲われる。

「………シズちゃん」

説明を求めての呼びかけに、身体を締め付ける腕の力が増した。
かすかに痛みを覚え、臨也は小さく呻く。

「痛いよ、シズちゃん」

諦めて身を預けて呟くと、静雄は細く、長く、息を吐き出した。
腕の拘束もそれとともに緩くなっていく。
そして、ようやく待ち望んだ返答があった。

「……手前が、死んだんじゃないかって…」
「はい?」
「新羅のやつが」

あの野郎今度会ったら殺す。
臨也は闇医者の人の悪い笑みを思い出し、低く唸った。
そう言えばここ二ヶ月、連絡を無視し続けていた。ついでに言えば、知り合いにも会っていない。
一切情報がない状況で、静雄が新羅の言葉を信じたとしてもおかしくはない。

「俺がそう簡単に死ぬと思ってるのかな、君は」

溜息とともに問えば、何故か腕の力が込められた。

「最初の一ヶ月はそう思ってた」
だけど、と続く言葉。
「どこにも手前の気配がなくて、」

言葉が進むたび強くなる力。
ああそうか。そう言えば事務所にもほとんど戻ってなかったっけ。
そう思って、臨也は甘んじてその暴力に等しい抱擁を受け入れた。

「なあ、臨也」
「…なに?」

呼んだくせにそれ以上喋らず、ただ骨が軋むほど抱き締められて。
近づいてきた唇に、臨也は小さく苦笑して自分から口付けた。
軽い触れるだけのそれは、すぐに頤を捕らえられて貪られるような深いものに変わる。

「ん…ぅ……ッ…ふ」

そのまま食べられるのではないかと思えるほどのキスに思わず逃がした舌は、だがあっさり絡め取られた。
歯列をなぞり上顎の内側まで嬲られて、身体から力が抜けていく。
ぞくりと背筋を走る悪寒に似た感覚が快感であることは分かっていた。
息継ぎの間すら惜しむように、幾度も角度を変えてひたすら貪られる。

「ふっ…ぁ…ッ」

咽喉を鳴らして混ざり合った唾液を飲み下す。
飲み切れなかったものが溢れて顎を伝うのもお構いなしの蹂躙に、いい加減呼吸が怪しくなってきていた。
酸欠と快楽の両方で霞がかかったように臨也の意識はぼんやりとしている。
とうの昔に四肢からは完全に力が抜け、静雄の腕に全体重を預けていた。

「…ッ…し、…ずちゃッ」

くるしい、とろくに力の入らない手で背を叩き訴えると、気づいたらしい静雄が、「わりぃ」と唇を合わせたまま呟いて。
最後に深く深く食むように口付けてから、開放された。
だがまだ足りないのか、口の端から伝う銀糸を舐め取り唇を軽く甘噛みしている。

「…も、ちょ、と…まって…」

潤んだ目を細めそう懇願する臨也に、静雄は「ん」と返事なのかそうでないのか分からない音で答えて顔を離した。
臨也が胸に頭を預け荒い息を整える間、黙って頬や首筋を撫でてくるのに抗議するのは諦めた。言ったところで不安を消したくてたまらないのだろう静雄が聞くはずがないのだ。
小さく嘆息する。

「っていうかさ、電話すればいいのに」

静雄からの電話なら、たとえその時出られなくてもかけ直すくらいはしたはずだ。
そう文句を言う臨也に、静雄は「それでかからなかったらどうすんだよ」と返す。
不安にさせすぎたか、と臨也は困って天を仰ぐ。
視界にはビルの合間の狭い空。
抱き締めてくる体温は、まあ悪くない。
たった二ヶ月の行方不明でこれとは、さすがに困ったものだ。
怒りを通り越して不安と恐怖に駆られていたのだろう静雄の背をぽんと叩いて、臨也は自分が思っていたよりはずっと静雄に嫌われていないらしい事実を笑う。

「とりあえず静ちゃんち行こう?」

静雄の胸に頭を預けたまま、そう言ってから鼻先を埋めて息を吸い込む。
馴染んだ匂いに図らずも安堵し、寂しかったのは自分も同じかと苦笑した。
抱き合う一方でここ池袋で出会えば殺し合う仲だというのに、いつの間にここまで依存してしまっていたのか。
気づいてしまった以上、さすがの臨也ももう笑うしかない。

――とりあえずお互いの飢えを満たそうか。

そう諦め半分に思考して。
臨也はもう一度静雄に誘いをかけるために口を開いた。












※居ることが分かっていれば安心して会わないでいられるけど、いざ居なくなったら不安になるシズちゃんの話。
途中で方向性を見失いました。