割れ鍋に綴じ蓋











「いっ、つ…」
壁に叩きつけられて臨也は呻いた。
避け損ねたどこかの店の看板が、がらがらと音を立てて地面に転がる。

「いーざぁーやーくーん」

迫り来る脅威を前にこれはヤバイと逃げ場を探すが、

「逃がすかよぉ!」

その前にがつんと音を立ててゴミ箱が叩きつけられる。
辛うじて避けたものの、その間に距離を詰められていた。
ぐいっと胸倉を掴まれて吊り上げられる。

「ひっどいなぁ…シズちゃん。もう少し手加減してよ」
「あぁ?馬鹿なこと言ってないで死ねよノミ蟲」

ぐっと力を込められて、呼吸が止まる。
「く…」
苦しいし、痛い。
静雄の力を考えれば無意識に手加減はされているのだろうが、ただの人間に過ぎない臨也には十分脅威だった。
だが、その脅威は問題ではない。

――ああムカつく。化け物の癖に手加減とかするなよ。

「ッ!」
ヒュッと音を立ててナイフが走る。
だが、首筋を狙った一撃は避けきれなかったにも関わらず皮膚を薄く裂くだけで終わった。
避けた拍子に緩んだ手から逃れ、ゲホゲホと咳き込みながらそれでも臨戦態勢をとる。

「は、もう本当にムカつくなぁ…。ナイフが刺さらないとか普通ありえないって」

本当にありえない。そう内心舌打ちしつつ、臨也は笑う。
臨也にとって平和島静雄という男は不愉快で目障りな存在だった。
利用しようとしてもうまくいかず、ならば始末してやると張り巡らせた罠をその罠ごと力づくで破壊し計画をぶち壊す最悪の存在。
池袋に出向けばどこからともなく臨也の存在を嗅ぎつけて現れる、一切の理屈の通じない化け物。
相性は最悪。いつだって殺したいと願ってやまない仇敵。
なのにどうしてこんなにもこの存在が自分の心を占めるのか。臨也は反吐が出るその事実に歯噛みする。

「殺せないならいっそ、君を閉じ込めてしまえれば安心なんだけどな」

ぽつりと呟いた言葉は相手の耳にも届いたらしい。
静雄は不愉快そうな顔で臨也を睨んだ。

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ」

低い恫喝は、しかし臨也には効果がない。
この御すことの叶わない存在をどうして欲するのか、その答えを臨也はとっくに知っている。
そして、たぶんそれは静雄も同じだ。自分と相容れないはずの存在をなぜこんなに執拗に追いかけ続けるのか。そう。お互いとっくに理解している。
くつくつと楽しげに笑って臨也は首を振った。

「…いや、結構本気だよ?君が俺の邪魔をしなきゃ俺は趣味を優先して楽しい人生を送れそうだしね。ホント、閉じ込められてみる気ない?」
「ほぉお、いい度胸じゃねぇかイザヤくんよぉ」

ぐっと握られた拳は、どれほどの破壊力を秘めているのか。
ぞくぞくと背筋を走る興奮と生きている実感に満足げな顔をして、言葉を続ける。

「はは…それにさー」
「あ?」
「閉じ込めてしまえば、シズちゃんは俺だけのものになるじゃないか」

どこか独白めいたそれに、静雄の動きが止まった。
目を見開いて呼吸すら止めた姿は見物だったが、臨也はそれを揶揄することはなかった。

「閉じ込めて俺以外の一切と接触させなければ、俺以外を見ないで、俺のことだけ考えて生きるシズちゃんが手に入るかもしれないとかさ」
どこかうっとりとした声。楽しげに細めた目は真剣で、言葉遊びでないことは確かだった。
「堪んないよね。考えるだけで興奮しそうだよ」
「変態か手前は」
「かもね」
「ちっ」

舌打ちし、ずかずかと近づいてきた静雄に一瞬反応が遅れて腕を掴まれる。
しまったと焦り殴られるのを覚悟して目を瞑る。だが、何故か攻撃が来る気配はなく、臨也は首を傾げた。

「…シズちゃん?」

その顔には純粋に疑問だけが浮かんでいて、静雄は内心に渦巻く怒りを無理やり往なす。

「確かにな」
「え?」

きょとんと自分を見上げる臨也の顔を見つめたまま、静雄は言葉を吐き出した。

「いっそ手前に閉じ込められちまえば、こんな風に暴力を振るわずに生きられるかもしれねぇとか、考えたことはある」
「…は?なに言ってんの?…ありえないよ?シズちゃんそういうキャラじゃないでしょ?」

衝撃的な言葉に焦ったのは臨也のほうで、どこか必死な声で言葉を紡ぐ。
それを笑ってやって、静雄はその腕を引っ張って強引に顔を近づけた。

「最後まで聞け」
「う、うん」
「考えはしたんだが、手前に飼われる自分とか想像したら胸糞悪くてなぁ?」

いつだったか、手に入らないならいっそと考えたこと。臨也の側でずっと臨也を縛り付ける存在になれるならと考えて。だが、それでは臨也は自分だけのものにならないのだと理解していたから、やめた。静雄はそんな自分を褒めて、にやりと凶悪な笑みを浮かべた。
ぐっと力を込めて道路標識を引き抜く。
それに気付いた臨也は青ざめて腕を引き剥がそうと暴れだすが無駄だ。

「や、その、ちょっ、この距離でそれはちょっとッ」
「死ねよ臨也。そうすりゃこの胸糞悪ぃ考えも消えてなくなるだろうからなぁ?」
「あ、ははは…勝手に想像したのはシズちゃんじゃないか。俺悪くないしッ!?」

至近距離で横に薙がれた凶器は、辛うじて屈んだことで回避される。

「ちっ、避けるんじゃねぇよ」
「いやいやいやいやっ、今の避けなかったら確実にこの世とお別れしてたから!!」
「こっちはそのつもりなんだよ!」

もう一度振りかぶられると思われた標識は、だが、がらんと音を立ててアスファルトの地面に落下した。
へ?と間抜けな声を上げる臨也に静雄はくっと喉の奥で笑う。
そうして、次の行動が読めず身構える臨也に代わりに為されたのは、噛み付くような口付けだった。
ビクリと大げさに震えた身体は、押さえ込まれて逃げを打つこともかなわない。
先ほどまで標識を握っていた手が顎を掴み頤を抉じ開ける。

「あ…、し…ず、ちゃ」

閉じられない口に舌を捻じ込まれ、引き摺り出された自身のそれを甘噛みされて。
臨也は強引過ぎる口付けの与える快感に小さく喘いだ。

「なあ臨也」
「ふっ、うんッ」

乱暴すぎるキスの合間に囁かれ、臨也は涙の溜まった目で相手を見る。
なんだと問いたいが口を開く暇を与えてもらえないのだから睨むしかなかった。
そんな臨也に静雄は欲望のままもうひとつの望みを口にする。

「いっそ、手前が閉じ込められるか?そうすりゃ、手前が他の連中に現をぬかす暇はなくなるよなァ?」

ヒュウと息を呑む音がして、一瞬の後、臨也が猛然と暴れ出した。
なんとか静雄の顔を引き剥がし、怒鳴る。

「…ば、かっ言うな!!」

右手に握ったままだったナイフを閃かせ、相手の手を切りつけて。
反射で放してしまった静雄からこんどこそきっちり距離をとる。
じりじりと後退りして逃走の機会を窺う様子にいつもの余裕の色はない。

「逃げんのかよ」
「逃げるよ、ああ逃げるさ。君と遊ぶのはそれなりに楽しいけど、俺はまだまだまだまだ遊び足りないからね!」

くるりと身を翻して走り出した背中はやはり焦っているように見えて。
静雄はため息をついて、それからその背に怒鳴った。

「逃げんな手前!」
「ばいばいシズちゃん!もし本当に閉じ込めてほしくなったら教えてよ!」
「待ちやがれ!」

追いかけてくる男の声を聞きながら臨也は心の中で本気で叫ぶ。


――ああもう馬鹿じゃないの!?っていうか、それもいいなんて思う自分が最悪だ!閉じ込めるとか犯罪だってわかってんのかよ、ああクソッ!


お互い閉じ込めたいのも閉じ込められたいのも本当のことだとか、そんなのすでに知っているのだ。
だからこそ、ありえないほど合致したお互いの欲望を実現させないために今は逃げるしかない自分を、臨也は心の底から罵った。












※閉じ込めて閉じ込められて完成する狭い世界に焦がれる人のはなし。独占欲のひとつの形…?
もっと穏やかに二人が話してるのを予定していたのに何故かこうなりました…。ケンカップルめ…。