幸福論
※『恋する怪物』終了後の話。吸血鬼×人狼。
















――ああ、幸せだなって、そう思う。









椅子に背を預けたままぼんやりと、キッチンに立つその背中を眺めていた。
シズちゃんのアパートでこうやって過ごすことが多くなってずいぶん経つ。
細身だけど高い身長と、無駄な肉のない引き締まった体は既に完成された男のもの。
吸血鬼の肉体年齢がどのあたりで止まるのかは知らないし、そもそも血が薄いシズちゃんの場合は年を取らなくなるかも分からないけれど。
高校時代から知っているこの吸血鬼が、ずいぶんと成長したのだと、ふとした瞬間に気付かされる。
部屋に染み付いた煙草の匂いすら、すでに俺の日常の一部になっていて。
月日、というものを実感してしまう。

時は一瞬たりとも止まらない。
この指をすり抜けて、留まる事無く流れていく。

「ねぇ、シズちゃん」
「何だ」

呼べば返される応え。
それがこんなにも嬉しいものなのだと、あの頃の俺は知らなかった。

「シズちゃんって背が高いね」
「それがどうした」
「んー…別に」
「…意味分かんねぇぞ」
「耳しまっていい?」
「ダメだ」

すっぱり却下されて溜息。
床に落ちた尻尾がぱさりと不機嫌な時のそれで揺れる。
振り返りさえしない男を睨みつけて、耳を伏せて唸ってみた。

「シズちゃんの馬鹿」

何がそんなに気に入ったのか。
シズちゃんは二人だけの時は耳と尻尾を隠すなと煩い。
別に出そうがしまおうが労力に差があるわけじゃないけど、感情が出てしまうこれらは結構不便だ。
なのに、それこそここ数百年で出現させた回数よりこの数ヶ月での回数の方がずっと多い。
ずいぶん長く生きたけど、こんなこと俺に望むのは絶対シズちゃんくらいだ。

「…シズちゃんに会わなかったら、俺は今頃どうしてたのかな」

呟きは小さく。
でも、俺ほどじゃないけど耳がいいシズちゃんには聞こえたらしい。
ぴくりと背が揺れたのが見えた。

「まあ情報屋はしてたと思うけどね」

多分、それは変わらない。
俺はこういう生き方以外をする自分が想像つかないし。

「今と変わらないじゃねぇか」

あくまで振り返らないまま、シズちゃんが言う。
低い、声。
呆れの色を含んでいるのに、どこか優しい低音。
どんな音楽より心地よい響き。

「確かにねー」

うん。今と変わらない。…でも、でもね。

「でも、隣にシズちゃんがいない」
「………」

独白めいた言葉に返されるのは沈黙。
優しい彼のことだから、俺が何を考えているのか必死で推察しようとしているのだろうけど。
大したことじゃないんだ。
これは、有得たかもしれない、でも有得ない仮定の話なのだから。

「多分、俺はただ死ぬのが怖いからって理由で、ずうっと生き続けてるんだろうね」
「………」
「だあれも知ってるやつがいなくなっても、ずっと一匹で生きてる」
「………」
「シズちゃんは、俺と出会わなければもっと平穏な生活が送れただろうね」
「………」

やはり沈黙。
少しの困惑と、苛立ちと。
本当に昔から彼は分かり易い。

「出会いって不思議だよね。こんなに広い世界で、何故人と人は出会うんだろう…出会えるんだろう」

そう言った俺に。
ついに痺れを切らしたシズちゃんが振り返った。

「…何が言いたいんだよ、お前は」

鳶色の瞳が苛立ちに揺れて。
こんなことで彼の心が俺に向いていることを確認してしまう己の愚かさに自嘲した。
俺は疑り深い。
それは、迫害される生き物に生まれたせいで、そして、長く一人であったせいだ。
だからこそ。
俺といることがシズちゃんの為になるとは思えないと、いつも思う。
それでも。
今更手放すことはできそうにない。

「まぁ、つまり。要約するとシズちゃんに会えて幸せだなーって話なんだけどね」

大きく見開かれた目。
次いで紅潮する顔。
ふいっと視線が逸らされる。
相変わらず、シズちゃんは純情で照れ屋だ。

「…俺もだ」

再び今日の夕食になる予定のシチューの入った鍋に向き直って、聞こえるか聞こえないかの大きさでぽつりと洩らされた言葉に。
声に出さずに小さく笑った。
こうやって話していること。
話すことができること。
それは多分、奇跡のような、幸せな日常の一コマなのだ。












※その人にとっての幸せの話。
昔書いた別ジャンルのSS、廃棄するのがもったいないという貧乏性を発揮してリメイク。