平和島静雄に関する一つの考察

















平和島静雄のボキャブラリーは貧困だ。
そう常々臨也は思っている。

臨也を見つけた時にその口から飛び出す罵倒語といえば、「ノミ蟲」「死ね」「殺す」とか、そんなもの。
あとはせいぜいお決まりの定型文みたいないくつかの言葉。
人間として恥ずかしくないのか、単細胞め。
そう思って、臨也はふうと溜息をついて首を振った。

ころりとベッドの上で転がって、部屋を見渡す。
見慣れた部屋。
自分のマンションではないし、新宿でもない。池袋の、せまいアパートの一室だ。
それを改めて認識して、またころりと転がってうつ伏せになる。
関節と筋肉が軋んで鈍い痛みで訴えてきた。
不愉快だ、と思って小さく息を吐いて、それから思い切り肺に取り込んだ空気は、よく知った匂いに満ちていて。
ますます臨也の機嫌を降下させる。

昨夜はずいぶんと無茶をされた。
泊まるつもりなどなかったのに、結果としてこうやってここに留まっていなければならない程に。
「相変わらず、変なところで鋭い」
行為こそいつものそれ以上に激しかったが。
ほんの少しささくれ立った心を見透かすように、甘やかされた。
その記憶が、臨也の機嫌を降下させている。
『好きだ』とか『愛してる』とか。そういう言葉は吐かないくせに、平和島静雄の唇も指先も、酷く、雄弁なのだ。
普段のあのあり得ない力が嘘のように、優しく、甘く。
肌に触れるその感触が、たまらなく心地良くて、それが不愉快だった。

「…勝てないなぁ」

出会ってからずっと。
うまく罠に嵌めたこともあるが、臨也は一度として静雄に勝てたと思ったことはない。
いつだって予想の斜め上。思ったとおりになどなってくれない男に、苛立ちは募るばかりだ。
すべて何もかも計算して動く自分とは正反対の、直感で生きているような相手。
だから、言葉を使うのは得意ではないのだろう。

だが。

「ああいう時に、馬鹿はないよねぇ」
少なくとも、体を繋げている時に言う科白としては頂けない。
そう呟いて、臨也はだるい体を無理やり起こした。
――馬鹿か手前。
そう、睦言の代わりに臨也の耳に囁いて。
それとは正反対の優しい手つきで臨也を翻弄した男。
ああ不愉快だ。顔を顰めて、臨也は唸る。
あそこは、さすがに別の科白を言う場面だろう。もう少し頭を使え。あとボキャブラリーが貧困すぎる。そう罵ってやりたい。
単語の登録数が少ない脳みそだから、ああいう場面でそんなことしか言えないんだ。甘やかすならちゃんと甘やかせ。
そんなことを思いながらシーツをかき集めて体を包んだ臨也は、ようやく戻ってきた男を睨んだ。

「遅い」
「あのな…」

臨也の一言に溜息をついて。
男――静雄は、ほらとマグカップを差し出してくる。

「手前がインスタントは嫌だとか生意気抜かしやがるから遅くなったんだろうが」
「………」

受け取ったカップの中身はコーヒーだ。
静雄の言葉通りインスタントでないそれを一口含んで、頷く。

「おいしい」
「当たり前だ。何度淹れたと思ってんだよ」

いい加減手前の好みは把握済みだ。そう言う静雄に、気付かれぬ程度に目を見開いて。
それから臨也はくすりと笑った。

「それは嬉しいね」
「煩ぇ。俺は嬉しくねぇよ」

ちっと舌打ちして、視線を逸らした静雄に笑みが深くなる。
計算通りにいかない相手だが、言葉同様に単純なので行動の端々から何を思っているか推測するのは難しくない。
あと一押ししたら、怒るな。そう判断して口を噤んで。
臨也は自分の好みに合わせられたコーヒーをちびちびと飲んだ。

「…なに?」

ふいに伸ばされた手を不審に思いながらも避けずに様子をみていると。
その手は迷うことなく臨也の首から頬を撫でてくる。
「赤くなってるな」
目元に止まった指先がそこを撫でるので、臨也にも意味は通じた。
「散々泣かされましたので」
君が悪いと厭味を言うと、笑われる。
何だと思う間もない。
直後、カップを取り上げられて、腕を掴まれて。
臨也は再びベッドに横たわっていた。

「…ちょっとシズちゃん」

見上げる先の男を眉間に皺を寄せて睨みつけるが、効果はなさそうだ。
これから起こることは十分予想できる。予想というか、すでに確定している未来だと言えるだろう。
当然、そんなものを認めるわけにはいかない。
今日は休日の静雄と違い、自分には午後から仕事があるのだ。

「シズちゃん、離して」

退けと低くした声で威嚇する。が、臨也の手首を押さえ付ける男は緩く首を振っただけだった。
「なあノミ蟲」
「何かな」
やばい。旗色が悪すぎる。煽るような態度をとった覚えはない。どこで計算を誤った?
そんなことを高速で考えるが、答えは出ない。

「誘ったのは手前だ」
「誘ってないし」
「誘ってんだよ」
「昨日どれだけしたと思ってんの?足りないわけ?」
「足りねぇな」

朝っぱらからそんなことはしたくない。そう首を振って訴えるが、見下ろす静雄の顔は欲情した雄のそれで。
まったく引く気配のないその姿に、ひくっと口の端が引き攣る。
「〜〜ッ…死ね!」
「手前が死ね。…ああいや違うな」
にやりと笑う静雄の手が、さらに下に進む。

「喰わせろよノミ蟲」
「嫌だ」
「喰ってくれって顔してただろうが」
「してない!」
「してたんだよ」

人の話を聞け!そう思うが、もはや聞く気がないのは分かりきっている。
いつもは計算して誘うが今回は本当に違う。そう主張したところで、一度火がつけばこの単純な男は止まることなどできないと知っていた。
しかも、甘やかされている自覚もある。いまだ燻る不快な感情を、勘だけは鋭いこの男は敏感に感じ取っていたのだろう。
強引さとは裏腹の優しい手つきで素肌を撫でられて、ふるりと体が震える。

「手前が悪い」

お決まりの科白を吐いて覆いかぶさってくる静雄。
臨也のように反論を封じるために長々と弁舌を振りかざすようなことはしない彼は、短い科白とその行動ですべてを示そうとする。



…やはり、平和島静雄のボキャブラリーは貧困だ。
そう考えて、溜息をつく。
どうせ逃がしてなどもらえないのだ。
早々に諦めた臨也は目を閉じて、自分を甘やかすその手に身を委ねた。












※複雑な心境の臨也さん。